前回があまりにもネタ記事すぎたのでちゃんと書きます。
本を読むのが好き。主に読むのは小説、フィクション要素の高いミステリとかラノベとか。本を読むのが好きと言うとどうして好きなのと言われることがあって、返答に迷う。
活字欲が満たされる
yes。結局のところこの理由が一番大きい。ずっと活字を読みたいという欲求を三大欲求と同じかそれ以上に抱えながら生きていて、それの満足度が保証されていて最も手っ取り早い解消手段が本であるということ。Twitterやブログ等でも解消できるけど、あまり満足できない。
それこそチラ裏マガジン開設理由記事にも書かれていたけど、脳の報酬系がいじくり回されて「短い刺激的な文章をたくさん読む」ことに快感を覚えるようになると思っている。読む文章が短くて刺激的なことはまだよくて、それが大量に流れてくるせいで快感が飽和してしまうことがかなり問題。それに対して小説は読み終えたこと・面白かったことに快感を覚えるので、報酬系が麻痺しなさそう……だと考えている。実際のところわからない。単にSNS中毒よりはマシなだけで、生物としては異常な状態にあるのかもしれない。人間以外に物語を好む生き物はいないし。
作品の世界に浸れる
どちらかというとno。私はあまり作品に没入して読むタイプではなく、小説によく挟まれる誰彼のビジュアルの説明や風景の説明を把握するのがかなり苦手。キャラクターに乗り移るというよりは遠くから眺めている神様の視点になり、たまに何やってんねん私だったらこうするなあと突っ込みを入れるくらい?
そういえばこの前小説でよくある人の服装をじろじろ眺めて詳細に説明するパートいらなくない?というツイートを見かけた。必要ないとまでは言わないが、長々やる必要はなく、男女と髪型と系統だけわかればいいと思う。クールぶってる主人公が女の子のビジュアルじろじろ眺めているのを想像すると少し嫌な気分になるな。
同じ理由で「疑似体験ができる」というのもあまりない。本を読んで体験したことが実際に見聞きした体験と同じレベルの「体験」であるとは到底思えないし、キャラクターが小説内で調子に乗ったり恥をかいたりしたことを自分のものとして取り入れるのもちょっと……。
新しい視点が身につく
no。小説で出てきた人物が自身と違う考え方を持っていたとして、それが「こういう考え方の人も世の中にはいるんだなあ」と知ることはできても身にはつかなくない?特徴的なセリフや言葉や文体に振り回されることはあっても、私は私だという心構えで読んでいる。
恋愛小説や、どろどろした愛情による愛憎劇を読めないのってこれが原因かもしれない。芦沢央の『汚れた手をそこで拭かない』という本があり、その中に「ミモザ」という短編がある。簡潔にあらすじを述べると、社会的に成功し結婚もした女性が昔秘密で不倫をしていた年上の男性と再会し、お金を貸してくれと頼まれ……からまぁすごい転がり方をしていく話。昔は全能のように見えた男性が今じゃ私よりも下にいるという優越感はわかるけど、話しているとどうしても昔好きだった気持ちが湧きだしてどうしようもなくなる、というのが理解できなくて魅力が半減してしまった。適度にどろどろした恋愛や愛情を抱いておく方が物語は楽しめるのかも。
考察したい
no。何でもかんでも考察し、現実世界の何かと繋げ、あれは示唆だあれは比喩だなどと盛り上がる風潮が正義なのが許せない。例えば作家本人が何かを伝えたくて書いたとしても、それを小説、フィクションの形で出した以上はフィクションとして受け取る権利が読者にはあるはず。読み取る権利じゃなくて読み取らない権利。それに、ネットで考察を見てしまうとどうしても自分の感想も考察もいっしょくたに塗り潰されて正解だと思ってしまうし。
好きな作家の世界を体験したい
yes。作家さんが小説という形で頭の中の何かを出力し、お届けしてくれるのはうれしい。たとえ作者が亡くなってもいっぱい書いていてくれれば後からいっぱい追うことができ、消失しないのは本という媒体の特権に感じる。
おわりに
なんかあんまりまとまらなかった。フィクションの小説が大好きです。別に何かを学ばなくても読んでいいと思っている。本を読んで本棚に埋めていくことは楽しい。以上。
これはだれ
Hals_SC